ichat

ichatで元同居人と長々と話す。 私は元同居人のことがスッゲー好きだ。 歩ちゃん大好き! 友愛だ! 
日本の友達とこっちの友達を比較するときがある。 日本にいる人と別れてまでこっちに来た意味はあるのかとかそういう事もたまに考える。 大学はとても充実しているのでこの質問自体が感傷的な事はすぐに分かるんだけど、それでも日本の人たちは恋しいし、丁寧に育んだ関係だし一緒にいれないってのはなかなかに寂しいものだ。 でもその人達との関係があるからこそ、良い選択ができてきているってのも凄くあって、寂しさを越えた尊敬と愛情が沸き上がりますね。
私が元同居人に預けたメダカ達が産卵し、ついに卵からお子様達が産まれたそうだ! 凄い! 是非写真が見たい。 預けてきている植物達の写真も見たい。 こっちでの生活が落ち着いたら、植物を育て始めようかな。 でも部屋の中を日本にいたときのようにジャングルにしなくても、もう十分に居住区の周りはジャングルなのよね。 しかも自然発生の。 家の中をジャングルにしたら内と外の感覚がなくなってしまいそうだ。 

ニュージーランド人の性格は、ニュージーランド人になって何世代目かとか、その人の文化背景がどこかとかによって全然違うから、「ニュージーランド人ってこうよね」とかってのはなかなかに言いにくい。 移民の国なだけある。 
友達を家によんで食事会をした。 ちょっと怪しいドイツ人と、美しい少年と、ヒッピーの女の子達とで、ろうそくだけの薄暗い部屋でご飯を食べて、そしてその後ゆっくりとお茶を飲みながら部屋でだらんとした。 ハウス愛原でちょくちょく行われていた事と外見上とても似ている。 でもどこか日本でしていた事と違う。 友達と感情が溶け合うような、気持ちが蜜になっているような、そんな日本でだと起こる事がこっちではおこらない。 やっぱり他人は他人って感じだ。 ニュージーランドの友達といるときはお互いの間で構造物を構築しているような気分に話しているとなってくる。 あの深い感情の混じり合いや呼吸が近くなる感じや、脈を交換する感じは日本特有のものなのかもしれない。 いや、そのような事がこっちの友達ともおこるけど、あまりその状況を意識的に作っているような感じはしない。 ちらっと、日本にいると人格の境界線が緩くなるのかもしれないと思った。 日本で食事をしていた友達は日本人じゃない場合が多かったから、「蜜、心臓シタシタ」は日本人の特徴じゃないのかもしれないけど、とりあえずなんか違うんだよなー。 日本で友達と食事をしているときはその明かりが灯っているエリアが一つの生き物になっていて、自分がその生き物の一部になっているような気持ちになる。 その感覚が好きだったから、ちょっと寂しい。 気持ちに沢山のひだができて、そこをゆっくりと暖かいものが通るって感覚がこっちにいるとない。 毛細血管にまで流れ込む時間の美しさがない。 

わたしは曖昧さと混乱がきっと美しい事だと思っていて、半紙に吸い込まれる炭のにじみのようなじわじわとしてくる感情を愛しているのかもしれないと考えた。 不思議だ。 心臓の裏を暖かく柔らかい液体でなでられる感覚を私はたまにとても恋しく思う。 

よく大学をアレクサンドラとぴったりくっついて友達のアトリエを巡回して、一緒に歩いているリズムと横から伝わってくる熱が心臓にまで届くような気持ちになって、凄く気持ちが良かった。 腰が当たり合う感覚や、背中にまわされた手や、アレックスのざらざらしたコートの素材感、歩き方によって変わる視線の動き、足の裏の感覚。 そういうのが大切な事だったんだなーと、今更ながらに思う。 こっちの生活はこっちの生活で良いけれども、日本の寒い冬を友達と一緒に過ごしたあの感覚が、暖かさが今は恋しい。 熱を、暖かさを、とても大切に思っていた、凄く特別な冬だったんだよなと去年を思い出して懐かしくなる。 私の多摩美にいた時期での私生活にて一番大切な思い出だわ。 案の定、そんなことばかりを重要視していたから成績はさんざんなものだったわ。

大学の課題で今シャンデリアをつくっている。 明かりが人に境界線を与える事があると思う。 そこを意識したい。 大学の先生とのインタビューで境界線の話しをしていて、「マオリとパケハ(ニュージーランドにいる白人の事)はいつも境界線の事でもめている」とか、「移民の国だからみんな文化的に境界線を越えてきた」などとコメントを貰う。 ここまでが個人であるって事への境界線についても話す。 自分の体や意識のどこまでを他人と共有するかって事の境界線についてもぽろぽろと。 

私が日本へ持っている日本への印象やそれに思っている事を、「私が思っている事だ」って感覚を抜きにした意見や、発言はしたくないと強く思う。 日本にいたから思った事や想像した事は沢山あるけれども、それでもそれが日本の何かを表すのではなくて、私の何かを表しているのだと意識したい。 同居人のベトナム人がお前は親善大使か?ってなぐらいに、ベトナム文化を非ベトナム人に教えつけてくる姿を見て、つくづくそう思う。 彼の場合、国籍と彼自身がごちゃ混ぜになってしまっているように思われる。 アジア人留学生がよくそうなっている。 日本人にしろ、韓国人にしろ、中国人にしろ、自分と国の優先順位がごちゃ混ぜになっているような感じがする、不思議親善大使留学生を見かける事がある。 大抵そういう人は美術やデザイン以外の事を勉強している人達で、自分が大学で学んでいる事が直接アイデンティティーとつながらない分野だからそうなるのかなとも思うし、あんまり自分の文化背景が理解されていないと思うからそうなるのかもしれないし、いろいろ理由があるんだろう。 スマートに外国人でいる事って難しいよな。 とりあえず、30秒に一回同居人からの講釈を聞かなくてはいけないヴェトナムの歌謡曲番組鑑賞は正直しんどいので最近は鑑賞会に誘われても、辞退させていただいている。