歌舞伎

友達が歌舞伎のただ券を二枚調達してきたので、観劇してきた。 お題目は「毛抜」。 国立劇場でやっている歌舞伎鑑賞教室ってやつの一環で歌舞伎をみる前に解説が入る。 覚えている限りこれが初めての歌舞伎鑑賞だった。 私が想像していた歌舞伎のイメージとは結構違った。 私の脳内歌舞伎はもっと派手でリッチで洗練されていた。 そしてもっと私に関わってこない、テレビの映像のようなものだと思っておりました。 実際のそれは、生々しく毒々しく、そして地味であった。 歌舞伎から自分へのアクセスを変更しない限り私は楽しみないと始まって数分で思い直して、いろいろと考えながらみた。 
 第一の感想として言えることは全体的にとても見やすかったということだ。 「どういう意味なんだ?」って所は少なかった。 音楽は理解できない部分がないぐらいに理解できる。 おお、これが自分の言語と同じ文化圏の音楽というものなのかと感銘を受けた。 シアトリカルな日本人の話し方は歌舞伎でなる音楽の演出と似ている。 舞台装置の配置も日本画のそれと、同じだった。 「ぴりっとしている」とか、「ぴたっとはまる」とか、「ちょっと外す」とか心の琴線を簡単に刺激してくる、理解しやすいかっこよさがあった。 ちょうど私の席が三階で舞台を斜め上から見下ろす場所で、余計に江戸時代の版画などの構図通りに見えて納得できた。 そして役者の動きや姿勢も浮世絵のようで、浮世絵と歌舞伎は関わり合っているんだなんだなぁと今更なことを実感した。 役者の視線や体を向ける方向による、観客との距離の置き方やこっちの心臓をちょっと掴んでくるような関わり合い方にはしびれた。 私が頭の中で感嘆したりなんなりしている間に畳み掛けるように演技がくるのとか、面白かった。 なんか理解できるコードがあるんだなと思った。 ああ、あの画家のあの色は別にフィクションとかじゃなくて、この木をこの天気の時に見て知ったのねと、イギリスの田舎に引っ越したとき景色や人々を見ていて西洋芸術を現実的に感じた時のことを思い出した。 そういうコードみたいなのを感じたときにいちいち感動してしまう。 

 しかし、私の言葉遣いや間の取り方と直接関係がある文化を発展させた芸能で理解しやすいからって好きだってのと直結はしない。 理解できるけど好きじゃないものって沢山ある。 私からしたら歌舞伎はおぞましかった。 多分色使いがだめなんだ。 一つ一つはいい色なのに、その組み合わせ方が大変苦手である。 高橋留美子の絵づらのおぞましさ、見たくもない感じとリンクする。 あと、異性ってカテゴリーに私が分けている人やなんかと二人っきりで部屋にいるときに途方もないコントロールしきれない生命力みたいなのを見せつけられた気分になるふとした瞬間のおぞましさとか、デイビットボウイの毛の密集率とか彼の顔のバランスが私に与える感じとか、なんか箱に詰めて山奥に埋めておきたいおぞましさ満載であった。 おぞましすぎていっそ、生きている実感を得てしまった。 このおぞましさを通過した後の快感が歌舞伎なのだろうか。 そう考えると癖になりそうだけど、でもそれってどうなんだろうか。 おぞましさは色気を含んでいて、その色気は私の好きな色気じゃなくてなんか、居心地悪いんだよねー。 でもそれを理解したら深い四十八手が待っているのか。 あー、わからない。 
 個人的にその「わからない、もやもや、ごにょごにょ」とした部分を除いて歌舞伎で面白かった場所は黒子の人達だ。 「歌舞伎の舞台上で黒い部分はないってお決まりごとです」と解説されたときに、そのお決まりごとの面白さに膝を打った。 いるのにいない黒子とか、あるのにない壁とか面白い。 そこにはなんかとても興味深いものを感じる。 そうやって舞台を作り上げて、「いるけどいない」ってことからおこる深みはなんだかユーモラスだし、リスクと可能性の混ざり合いって感じで面白い。 

 歌舞伎の後に大学の先生と友達と合流してお茶をする。 すてきな時間であった。 
 

雑誌を数冊買う。 ここはコピーしてノートにはろうとか、切り取ってもいいなとかごにょごにょと考える。 多分切り取らなくて雑誌として、本としてすごく好きだからとっておきたいって思えるようなのがいい出版物なんだろうと思うけど、今回のはパーツパーツよくても集合としてはあんまりよくなかったから、私のノートで再構成することにした。 私の大好きなはさみとのりの時間が今夜待っていると思うとわくわくだ。