コミュニケーション2

昨日に引き続きイメージバトンを行います。


1受け取ったキーワード "コミュニケーション"

 コミュニケーション。 「コミュニケーションとは」って全体をとらえようとしているから難しいんだと思うので、細かくいきます。 

 良いコミュニケーターって言われる人はインプットとアウトプットの両方を意識的にうまくできている人だと思う。 技術が必要だと思うし、その技術を得るためには訓練が必要だと思う。 デザイナーにはデザイナーの方法論があるし、医者には医者のそれがあるんではないだろうか。

 我が家での偉大なるコミュニケーターとしていつも例に挙るのが山本耀司だ。 The dollのDVDに入っているインタビューを同居人たちと見た時に、家の一人が彼の手の動かし方と話し方のリズムが完璧だと感に入りそれ以来コミュニケーターの殿堂入りをしている。 西洋人のインプットアウトプットにがっしりとはまる何かを山本さんはお持ちのようだ。 山本耀司は外国人とのコミュニケーションがうまい人だ。 

 私はいつでも人と関わり合うのが難しいと感じる。 (この手の難しさを人と比べるのはどっかしらナンセンスなので、「私と比べたらあんたの抱えている難しさなんて、ないようなものよ」とかそういうふうにはとらないでください。 誰にだって、乗り越えるのが大変だと思っている難しさがある。) 今のところ難しいけど、挑戦したくないとか、難しいから悪いものだとかそういう風に思っていない。 それどころか、コミュニケーション抜きで生活しようとしたら、それこそなんか根本的に難しい事になると思う。 人とコミュニケーションをとるのが難しいのは、コミュニケーションをとらない事で生まれる難しさの所為だろう。 今さらっと言ってみたけど、私的にはかなりの発見なですが、これって当たり前?

 私が日常的に一番人とコミュニケーションするために使っている言語は英語で、それは母国語が日本語で頭の中でも多くの時に日本語を使っている私にとってはあんまり自然な事じゃない。 それでも人間には適応能力ってのがあって、日本語と英語の役割分担みたいなのが出来て行く。 こっちにいる時日本語は完璧に黒子の世界だ。 日本の伝統芸能の本を読んで、歌舞伎役者や文楽人形と黒子の関係に、最近かなり魅せられた。 「いるけどいない」とか、「だから黒い」とか凄く面白いと一人で盛り上がり人に伝えたりしたんだけど、周りにはあまり共感してもらえなかった。 昔日本の国営放送で「アインシュタインロマン」って番組があって、文楽人形が相対性理論を表現したのよ、私はその時からこりゃ凄いと思っていたねと饒舌に説明しても「へぇ」って感じだ。 そこまで面白がることかと逆に訝しがられたり、「最近日本ネタ多いね」と国粋主義者っぽい扱いを受けたりした。 でも別に私はこの考え方を世界で一番優れている表現方法だとかっては思っていないので国粋主義者じゃない。 そこまでの思い上がりはないと言う事だけは伝えたい。 「面白い」と「偉い」は違う。 第一舞台演出が優れているからうちの国は凄いって論理ってどうよ、だって、literalに訳さなかったら「うちの遊び(Play)は凄いからうちは凄い」って事になるじゃないか。 まあ、遊びが凄いのはかなり凄いと思うけど、それ以外にも凄い事はあるさ(きっと)。 凄いから偉いって訳じゃない。 脱線したので元に戻ると、日本語が話せない人と話している時は相手からしたら私には、「あることは知っているけど、でもどういうふうにあるかまではわからない」黒子が後ろにいるようなものじゃないか。 なんかそれは私にとっては凄い事で、前の日本のフラットで私は六畳の部屋に住んでいたんだけど、友達とかと夜部屋で遊んでいるときに、一体どれだけの「あることは知っているけど、でもどういうふうにあるかまではわからない」事がおこっているんだろうって不思議に引き込まれて、とんでもない空間に立っているような気分になったんだ。 そういう時にあると信じている六畳の結束が一瞬崩壊するよね。 コミュニケートし合っている面がわずかでも重なり合うという不思議。 そしてそれを可能にしてくれている黒子がいるのは分かるけど、それがどんなものなのかは分からない。 これは言語だけでなくて、なんにでもなんだけど。 

 今心の底辺に「遊び」は凄いっていう思いがあるから、どうしてもそっちに引っ張られて行くんだけど、やっぱりどうしてもコミュニケーションは遊びと深い関わりがあり、遊びたいという感情がモチベーションになる事が多いと思ってしまう。 遊ぶってこういう事さってのが「遊園地」やら「幼稚園の園庭にある変な遊具」とかブルータスの「夜遊び特集」とか「大人の遊び心」とか、メロドラマの「私の心を弄ばないで〜〜(涙)」(おっと、漢字が違った)とかで決めつけられちゃってるから、「遊び」ってのがちっぽけなつまらない事に思われるけど、遊びってやっぱり大切さ。 あー、あと「箱庭遊び」とかそういうエヴァンゲリオン的な現実逃避とか中原中也の擬音語みたいなうらぶれた感とかが、まあ、様々に「遊び」のいい面をつぶして行く。 でも、遊ぼう! 遊んでいると気がつかないぐらいに深く遊ぼうじゃないか、友人よ、って事で2へ



2渡すキーワード
勿論、「遊び」で。

3渡してきた人へのメッセージ
 元々は「渡してくれた人へのメッセージ」ってなってるけど、そんなに受け身になっちゃいけないと思わない? なんかそういう「お野菜を切ってあげましょう」みたいなの嫌だ。 

 渡してきてくれた人は私のここ数年感の間での一緒に遊んだ人上位3位に間違えなく入る人で(遊びすぎて去年の年末は二人で凄い状況になってしまった)、そして私が知っている偉大なるコミュニケーターの中でも上位3位(あー、どうだろう、微妙だな。 ロスコでしょ、ラウシェンバーグでしょ、サイ・トゥオンブリ…)、じゃあ、上位5位までに繰り下げて、そう、上位5位までに入る偉大な人物で、異常なまでに達者な(日本人よりもコミュニケーションというテクニカルな意味では上手い)日本語を使いこなす人物でもあり、「海外にいる外国人、こう振る舞うべき」だと私が日々思う偉大な外国人である人物です。 海外で偉大な外国人になるってのは、偉大な自国民になるよりも若干難しい事であるんじゃないかと思うので、この人は凄い。 この人を見よ。 そして、人々よ学べ、コミュニケーションの方法を。 特に私、学べ。 

 この人の凄いところは、私に何か言ってきた後に、いつでも私が「知ってたもん! 気づいてたもん! 深層心理の奥のまた奥で! ただ、今日は知らなかったし気がついてなかっただけだもん!」となる、そんな素敵な物事の再処理をする高い技術ですね。 この人がゴミ処理場ならかなり地球はきれいよ。 さすが、コンセプチュアルエコロジスト。 市役所は彼女の話しに耳を澄ませー。 ナウシカに出てくる王蟲みたいなもんだね。 この人ほど私が日本にいた時に私のドアを開けてくれた人はいないし、情報を伝えてくれた人はいないよ。 読んだらって勧めてくれたドゥルーズの「襞―ライプニッツバロック」、本当に読んでおけば良かったって今後悔しています。 もう、バトン投げ返しちゃうから、受け取って!


4次にバトンを受け取る3人

ススス  一緒に遊び惚けた仲なので、どうぞもう一回イメージバトンしてください。

元同居人  ブログやってる遊び仲間があんまりいないので、どうぞ受け取れ。 

Hana  こっちでの遊び仲間で日本語ユーザーでブログをやっている人はもっといないので、どうぞがんばって書いてください。 がんばれー! 陰ながら応援しています。