アクセス

 大学の図書館にAXISの新刊が入っていた。 カバーインタビューが原研哉だった。 思わず、「わあ、ケニアだ!」っと声をあげながら手に取った。 はじめて私に原研哉の作品を熱く語った友人が「ん」の発音ができない為に、彼の名前を「原ケニア/ケーニャ」と言うため私の中もまだ原研哉は原ケニアだ。

 原研哉の発言は良い意味で古くさい。 プリミティブな事を結構平気で言っているように見える。 それは今様じゃないでしょって事を堂々と言えて、そしてその考え方を元にデザインに発展させていく姿に未来を感じて、私は心ときめく。 彼がインタビューの中で語っていた、「感覚の覚醒」はいつも私と友人が話している「アクセス」とかぶる(ような気がする)。 全ては私たちの周りにある。 過去からの遺産も、今から未来へと繋げていくための素材もなにもかも。 小さな、日常的な、当たり前な出来事をアクセスとして理解できて、過去と未来を繋げた時に今が見え、そして同時に様々な物事が有機的に構築されていく。 私たちは日々物事がアクセスされていく姿を見て暮らしている。 そしてそのアクセスをできるだけ価値がある形にデザインすることが大切なんじゃないかと思えてくる。 いつも友達と何かに気がつく度に「うわー、アクセスができたねー」と言い合っていて、そんなささいな事に喜んでいる自分たちをなんてナイーブなんだとたまにコンクリートに顔面から突っ込んで転ぶような気持ちになるんだけど、そのナイーブさをしたたかに生かしていっているのが原研哉のデザインなのかもしれないとインタビューやハプティック展の出品作品を見ながら思った。 


そういえば、Wallpaperっていう小金持のミドルエージ対象のデザイン雑誌に深澤直人がでていた。 「この人の顔はおじさんかおばさんか子供か老人かわからないね」と深澤を知らないクラスメイトが話していた。  世の中には、年を取るとかなり中性的になっていく人がいる。 確かムーミンの話の中でもそんな人が出てきていた。 かなり仙人的なキャラクターだった。 その手の、年齢や性別を超越した顔を見ると、なんだか感慨深くなってしまう。 平田オリザとか、横尾忠則の顔とか、なんかいろいろと分かりづらくない? その分かりづらさから何かが見えてくるのではないかと考え込んでしまったりする。 多分実際は何も分からないし関係ないんだろうけど。