ワンダフルライフ

 是枝監督のワンダフルライフを見た。 何回目か分からないほどに見ているが、最近特にこの映画が素晴らしいものに思える。 こんな作品が作れる人間に私もなりたいと思う。 映画が作りたいとか物語が書きたいとかじゃないけど、それでも「作品」はこういうこともできるんだと示されているような気になる。 考えてみたらこの映画が私を邦画の世界に引き連れていったのだ。

 字幕を読みながら、ああ、ここで「ワンダフル」って言葉が出てくるだと知った。 その訳は私の中のベスト翻訳センテンスに入る素晴らしいものでしたよ。 よよ、感涙。 

 昔から好きだった映画がどんどん好きになったり、前ほど面白いと思えなくなったりする度に、ピークがあるんだなと切なくなる。 この時に、あの時に、自分とこの映画は最高な出会いがあったんだなと思えてきて、ああ、季節は巡るのだと、琵琶法師みたいな気持ちになってしまいまう。 こういう細かい切ない感情を持ち続けたいと思うんだけど、同じようにこういった事に美やら切なさやらを感じる気持ちにすらピークがあり、いつか私は全く違うものに全く違う感動を持つようになり、そのときは春の夜の夢のような切なさはなく、ギリシャ悲劇のようなのに思いを馳せるのかもしれない。 (ジャクソンポロックが自分の中の悲劇のスーパースターになる日が来たら、その時は誰か私を焼き肉に連れて行ってください)

 泣くと言えば、同居人が「食パンを口でかんで帽子のつばみたいな役割をさせて、タマネギを切るとパンがタマネギのガスを吸い取って、目が痛くならないんだよ」と話していた。 口からでろんと食パンが出ていてタマネギを切っているのびのびた似の彼がタマネギを切っている姿を想像して、ニュージーランド人恐るべしとなった。 「パーティーでさ、誰かがタマネギを踏んじゃって、みんな泣き出しちゃって、でもなかなかタマネギが原因だって分からなくて、あたふたして楽しかった。 やっぱ食パンないとねー」と、凄くうれしそうに言っていた。 「君はもしものために、食パンをかみながらパーティーに行くのか?!」と深く何かに引きづりこまれていく気分になった。 今私は彼の宇宙の大ファンだ。 もっと聞きたい、彼の不思議。