La Traviata

 (椿姫)を見てきた。 友達の彼氏がバックステージで働いているので、内覧会(とでも言うの?)に行くチャンスを得たからだ。 持つべきものは友達のしっかりとした彼氏。 ありがとう、全ての友達の彼氏! 最近は友達以上に友達の彼氏に遊んでもらい、面倒をみてもらっています。 厄介な「彼女の友達」で申し訳ない。 でも、友達の彼女とか彼氏って本当に良い距離だよね。 なんか、お互いにある種の義務感を持ち合わせる感じとかが、ドライで案外心地良いと思う。 今日行った劇場はというところで、家から歩いて五分ぐらいのところにある古典的なパフォーマンスのための場所。 内装が非常にヨーロピアンで、なんかエキゾチックでいい感じです。 私の人生において、有名な古典作品のほぼ全てをここで見てきた。 小さな街に住む事の利点は全ての映画館、劇場、美術館が自分の人生のエッセンスで、様々な思いでが強く含まれる事ですね。 席に座った時に今までそこで見たパフォーマンスが一瞬頭をよぎる感じとか結構好きだ。

 椿姫は予想を激しく超えて良かった。 全く期待せずにただお出かけがしたくて行ったんだけど、なんだかもの凄く良かった。 パフォーマンスはストーリーラインで出来上がっているのでなくて「表現」で出来上がるものなのだと強く実感した。 ストーリーを読んだ時は、韓国ドラマみたいだなと冷え冷えと思った。 しかし、やっぱり演出次第でありますね。 第三章では涙が出てしまったよ。 っは、話に感動したとか、悲劇に思いを馳せたとかじゃないんだ。 もっと様々な要素の固まりの力に私の心は震撼したんだ。  第一章ではボンテージを着たお兄ちゃんたちとお姉ちゃんたちが鞭と腰を振りながら狂喜乱舞していて、セックスの表現として人々が椅子を動かし(的確な擬音語があるんだけど、シャイだから使わない事にするよ)、面白かった。 そしてそのボンテージ軍団の中に、友達の彼氏(私を招待してくれた人ではない人)を発見し、ちょっと嬉しかった。 黒と白だけで構成されている舞台世界はアルフレードヴィオレッタの衣装の色(どちらかが黒を着ている時はもうかたっぽは白)に反映して他の登場人物もどちらかの色を着ていて、興味深かった。 そしてアンニーナは完璧に死の象徴、ヴィオレッタの内面世界の存在として演出されていて、彼女のとても長いドレスの裾とヴィオレッタの関係によりヴィオレッタの死期が暗示されていた。 第三部ではアルフレードヴィオレッタのからみより、アンイーナのドレスとヴィオレッタの動きに重点がおかれ、愛情関係よりも死とのディールという方に演出されていて、私はその表現がとても好きだった。 第一部が群像の動き、様々なところから発せられる歌声、第二部が人々の心の内面そしてそれらのコミット、そして第三部がヴィオレッタの心理状況の話しって感じに受け取れる演出でした。 本当に第三部はお能みたいだった。 ヴィオレッタのシテの世界だった。 他の登場人物は形而上学的な存在に思えた。 最初は確実にあった他の人々の存在感や、からみによってうまれる浮き世の現実性みたいなのが、どんどん剥離されて行く感じ、でも「頭のいい深い演出だろ?」って嫌みな感じではなく最後までオペラであり続けた事が凄く良かった。 演出において日々多くの人が行き来しているであろうと私が想像する、浮き世と自分の世界の薄い膜みたいなのを良く表現していたと思う。 その膜にリアルが宿っていた。 そしてそれが椿姫のストーリーと良く働き合っていた。 良かった。 私が見て思った事が演出家の考えたコンセプトと少しでも合致していると良いのだが、もし激しく私が読み間違えしていたとしても感銘を受けながら私は鑑賞する事ができたので良かったとしよう。 本当に良かった。

 最近とみに「動き」からの情報伝達を考える。 全体の動きっていう大きな意味での動きからジェスチャーって意味でまで。 ジェスチャーよりも全体の動きへ、重要とされている事が変わってきたんじゃないかとかって思う。 それが私の中で変わった事なのか、本当に多くの表現でそうなってきているのかは分からないけど。 全体としてうんぬんってインスタレーション的だよね。 インスタレーションとか、上に書いた薄い膜とか、なんか”複製技術時代の芸術作品”みたいな、「何を今更!」ってことなのかもしれないんだけど、今更目につくんです。 ただ単に私の頭が数十年古いのかも。