クリスマスは再会であるから

クリスマス! なのに、バイト!
張り切ってシュトーレンを売ってきたよ。

何年間も行っていた友達の家のパーティーは今年は行かず、
鎌倉の教会の深夜ミサに行ってきた。
12時きっかりに始まるやつ。
そこでハードアウトに賛美歌歌ってきた。


ミサでは色々と感動しました。
教会の鉄則「沈黙」に乗っ取り、
何時間か全く話さないってのが凄く良かった。
普段しゃべり過ぎだからね。
終わった後、
一緒に行った友達と、
真夜中の鎌倉を散歩しながらも
結構沈黙。 沈黙してみる世界はいつもと様子を変える。

賛美歌の本に書いてあった言葉(有名なフレーズみたい。 ネットでもいっぱいのってるサイトがあった)

「もしも、あなたが悲しんでいるなら、喜びなさい。

    クリスマスは喜びだから。

 もしも、あなたに敵があるなら、和解しなさい。

    クリスマスは平和だから。

 もしも、あなたが傲慢であるなら、低くなりなさい。

    クリスマスはけんそんだから。

 もしも、あなたに負債があるなら、弁済しなさい。

    クリスマスは正義だから。

 もしも、あなたに罪があるなら、悔い改めなさい。

    クリスマスは恵みだから。

 もしも、あなたが暗闇に沈んでいるなら、灯をともしなさい。

    クリスマスは光だから。

 もしも、あなたが心得違いをしているなら、反省しなさい。

    クリスマスは真実だから。

 もしも、あなたが心に恨みを抱いているなら、捨てなさい

    クリスマスは愛だから。

 もしも、あなたが絶望をしているなら、キリストに目を向けなさい。

    クリスマスは希望だから。

 もしも、あなたに友人がいるなら、探し出しなさい。

    クリスマスは再会であるから。

 もしもあなたに愛する人がいるなら、愛を告げなさい。

    クリスマスは肯定だから。

 もしも、あなたの身の回りに貧しい人がいるなら、助けなさい。

    クリスマスは贈り物だから。」

読みながら、なんで私は今年一年間を共に過ごした愛する人達の元から飛行機でわざわざ遠くに去ったのさという気持ちになりやした。 今こそ一緒にいるべき瞬間なのにってのりにさ。 「まあ、キリスト教徒じゃないから、そこまでコンセプト通りに行動する必要もないのよ、私、元気出して!」と自分で自分を励ましてみた。

 
 それにしても日本の教会はひたすら懐かしい。
幼稚園が敬虔なカソリックの学校でミサもあったし、生誕劇もやったし、木で出来た十字架や、キリストの誕生を模した人形たち、ろうそくの匂い、賛美歌、話しの節々で使われる言葉、全部が自分の原体験だから、「巣に戻った」って気持ちになる。 自分が分裂していないという途方もない安心感。 何年間もお祈りをしていなくてごめんなさいと反省をオートマティックにしてしまった。 そして私は本当に近年感じたことがないぐらいの幸せな気持ちになった。 不思議。 しかし、小さいときの記憶に残っている爺婆のお葬式、ド派手に天台宗ってのも原体験なので、仏教系のセレモニーを見ても「おらが人生」を感じてしまう。 うん、これだよ、これってなるんだよね。 その後の小学校(仏教の学校だった)で拍車がかかり今でも一番好きな映画はリトルブッダ。 三歳で般若心境をそらんじていたからな。 そして幼稚園に行ったら、「主の祈り」をやっていた。 日本人だ。

中学生のとき、週に一回学校のお御堂でミサがあって、寮で馬鹿だった私は毎週学校のお御堂の罰掃除だったものだからずっと通うはめになっていた。 そして毎回、今回は寝まいと思っていても、激しく居眠りをして、みんなが賛美歌を歌うために席を立つときも一人で座って眠り惚けたりしてた。 しまいには後ろに座っていた先生に首を締められた。 学校の先輩が亡くなり、追悼のミサが行われたときも、ここで寝たら自分で自分を嫌いになると思いながらも寝てしまい、そして後ろに座っていた先生に殴られた。 でも最近ミサに行っても寝ない。 何故中学生のとき、自分ではコントロールできないぐらいにミサの度に眠かったのかが不思議でならない。  そういう意味でも成長を感じた。


みなさん、メリークリスマス!


 もしも、あなたに友人がいるなら、探し出しなさい。

    クリスマスは再会であるから。

 もしもあなたに愛する人がいるなら、愛を告げなさい。

    クリスマスは肯定だから。

だってさ。 凄い日なんだね。
私に愛されているんだろうなと思っている人、
多分大抵の人は見当はずれじゃないと思うから、
ああ、私に愛されているんだなと思ってくださいな。
そして、私の心が近くにあることを感じてケロ。