お別れだけど、お別れじゃないのよ〜

季節も季節だし、年齢も年齢だし、最近友人の動きが激しいです。 引っ越したり、新しいこと始めたり、みんな忙しそう。

 遠い異国である日本に住んでいる友人たちの事を思うと、最近ちょっと切なくなります。

 友達のブログやメールを読みながらぐううっとちょっとお腹に力が入ってしまったりします。 名前の無い感情が、身体に迫り来るんですよね。 みんな、どうもありがとう、こんなに新しい感情ばっかりを私にくれて。

 例えば、日本にいた時に「私の全て!」ってぐらいに仲が良かった人が、のこのこ韓国に帰っていったんだけど、ちょっと「あれっ? 私これから大丈夫なの?」って心配になっちゃうよ。 後、私の心の実家的存在ハウス愛原も解散っぽいし、「私、家無くなっちゃうの?」って孤独を感じちゃうよー。 あと、友達とか就職とか内定とかそういう素敵な単語がちらほら会話に出始めてきているし。 

 はあ…、なんかちょっと悲しくなっちゃった。 でも悪い味じゃない。 


日本からすると遠い異国のこちらではただ今イースターホリデーでございます。 日本で「もしかしたら距離が遠くなるのかな?」っていう変化がおこっているけど、こっちでだとまた逆の変化がおこっています。 少し前よりいろんな人との関係が近くなってきた感じがする。 そういう、自分と相手の関係がもしかしたら凄く今近くなってきているのかもしれないと気がつく瞬間みたいなのは、確か小さいときとかはあったんだけど、近年特に感じていなかった。 でもなんか最近たまに相手の心が真隣に今来ているのかもしれないって感じる生々しい瞬間とかがって、それはそれで非常に感動的です。 最近、少し生々しさに敏感になろうとしています。



 そういえば上の燃えている写真は、アブサンです。 はじめてこの間呑みました。 アルコール分72%だって。 でもすっごい良い匂いがするので、カンッと呑めました。(お酒はだらだら呑むのも良いけど、カンカン呑むのも良いよね。 お酒の三擬音のうちの二つは「だらだら」と「カンカンッ」だと思います。) その日は、かなりハードなモヒカン頭数人と、ドレッド数人、私というエレガントな組み合わせで、ギリシャ料理を食べにいき、結構なお料理をいただき、お酒もいただき、あっぱれな一日でした。 そして夜アブサンを呑んで、寝る前の時間、友達とベッドの中で絵を描きながら過ごし、本当に良かった。


 それにしてもギリシャ料理って、本当においしいですよね。 タラモサラタとか、謎のチーズとか、全てが心から好きだ。 (毎回どの国の料理を食べても思う事なんですが)もしかしたら一番好きなタイプのご飯かもしれない。 とりあえず、美味しい。 食べ終わった後の気持ちよさみたいなのがあるんだよね。 お酒と凄く良くあうし。 昔はワインが呑めなかったんだけど、私が呑めるようになったきっかけって言うのが、パリでギリシャ料理を食べている時に呑んだワインなんだ。 「こりゃ完璧だ」と単純に深く感動し、それ好きになりました。 そういう話しは多いです。 杏仁豆腐も立川のラーメン屋で食べてから、「大嫌い」から「大好き」になったし、スパークリングウォーターも大学の裏のカフェで杏とチキンのサンドウィッチを食べている時に飲んでから、嫌悪から敬愛のレベルまで跳ね上がった。 私の食を愛する素敵な友人の言った名言で「嫌いという前に六回試せ」ってのがあるんだけど、まさにそれです。 

 そうえいば、私の友達の八割以上が、いや、九割近くが「私は食を愛している。 ご飯大好き。 料理大好き。 いつもお腹がすいている」ってタイプの人達です。 私はそういう人と気があうのかもしれない。 でも、そういうタイプの人達って、「俺が/私が言っているから間違えない」って感じで色々と味に関して断言してくるからうざったらしい時がありますよね。 なんなんでしょうか、あの一種の押し付けがましさ。 食に魅せられた奴らはなんだか怖いぞ。 食事はダイレクトに自分の持っている文化的背景とかを表す、または示す事が出来るから、結構みんな政治的にその話しを使っているようにみえます。 無意識なのかもしれないけどさ。 なんだか友人の後ろにおっかないお母さんの影が見えたりする…、気がする。 とりあえず、「食事は政治だ」というのが私の近年の主張で、「食と自分との関係」の演出がその人の意識をかなり表すと私は信じています。 スペインの闘牛なみに、食事って「真実の瞬間」なんだと思うんだよね。 それを分かりやすい事だけで終わらせるか、それとも不安定で底が無い恐怖と同居させるかの違いみたいな…。 

 anyway,大前提で私は「食事が好きだ!」というタイプの人達が結構好きなんだけど、その次のステップのそれをどう表現するかってので、また色々とあるんですよ。 いかんせん、食事が家族の行事というよりも私個人の行事になってしまっている面があり、怖いお母さんの影がほとんどないものだから、相手のお母さんをの気配を感じた瞬間にひるんじゃうんですよ。 母対母とか、父対父とか、家対家対決では、私は間違えなく、瞬間で負けます。 「ローカルルール出しやがって、フェアじゃないぞ! お母さんのスカートの裾を放せ」とアクトしたりもするんだけど、うーん、あんまり効き目が無いな。  食事に対して情熱がある人って、まだ私や私の周りの人達が若いからってのもあるけど、やっぱりその人の育ったところ自体が食事に対して情熱的だったからって場合が多くて、私がどれだけその「家対家」の関係を嫌ってもついて回るんだよな。 そして食事に情熱がない人とある人だったらやっぱりある人の方が好きな訳で…。 うーん…。 松本人志浜田雅功の食文化の話しをしている時に「あいつは全寮制やから」って連呼していたんだけど、やっぱり小さいときから集団でご飯を食べていたとか、料理を作ってくる人と食べる人の関係が料理人と客の関係でしかなかったとかそういうのが私とずっと家でご飯を食べてそだった人の間に差を作るのかなあ。

 そんなかんじで食事の感覚があうって思える人は結局のところ少なくて、逆にぴったりあう人とかに出会うと感動するんです。 この感覚を持ち合わせているのは私だけじゃないのねと。 結構大きな感動。 で、話しはだらーっと長くなったんだけど、ギリシャ料理を一緒に食べた友達の一人がすっごく感覚がぴたっときて、心地よかった! ナイスでした。  結構本当に感動した。


おまけ*
 一緒に行った子たちの一人、ドイツ人の子が突然「私母国の恥なのよ。 私がする事は全部そう。 しかもそれがドイツ人をドイツ人たらしめる所以」と言い始めた。 かなり笑えた。 なんだか”ドイツ人”って彼女にとっては凄い定義で定められているのだなと一種爽やかな感動を得ました。